発掘調査時の袁仲一さん(右)=秦始皇帝陵博物院提供
<兵馬俑と古代中国㊤>
「最初はこれが(始皇帝の)兵馬俑へいばようとは分かりませんでした」
秦始皇帝陵しんしこうていりょう博物院(陝西省西安市)元院長の袁仲一えんちゅういちさん(89)は、兵士や馬をかたどった木製や陶製の俑よう(人形)が1974年に発見された当時を振り返る。袁さんは初代調査隊長を務めた兵馬俑研究の第一人者だ。
◆大発見のきっかけは農民の井戸掘り
紀元前221年に中国を初めて統一した秦の始皇帝。その副葬品の大発見は、農民が井戸を掘っている際、たまたま陶製の人形のかけらを見つけたことがきっかけだった。陝西省考古研究所の職員だった袁さんは一報を受け「本当に興奮しました。ただ、等身大の大きさとは想像もしなかった」と振り返る。
兵士の俑はこれまでに約8000体が掘り出された。身長180〜190センチ台と大柄で表情は全て異なる。当初は黒、朱、緑、青、紫などを組み合わせて彩色されていた。しかし、等身大は秦代だけで、その前後の王朝で見つかった俑は小さなものばかりだった。
兵馬俑調査時の思い出を語る袁仲一さん=中国・西安市で(新貝憲弘撮影)
◆地道な調査 1年後に分かったのは
文化大革命の大混乱で困窮する中、袁さんらは農家に寝泊まりして発掘作業を継続。「農民に負担をかけないよう毎日違う家で食事をもらった」。頭痛の種は発掘現場の保存で、稲わらで作ったシートで現場を覆って雨や雪から守り(防腐・防さび用に)周辺には酢を流した。苦難の末、74年7月からの調査では東西230メートル、南北約60メートルの1号坑こうから戦車や馬、青銅製の兵器も見つかった。
貴重な品々が始皇帝の副葬品と分かったのは調査から1年ほど後だった。「発掘された兵器に年号や(皇帝を支える丞相じょうしょうの)呂不韋りょふいらの名前が刻まれていた」という。75年7月、国営新華社通信が「兵馬俑発見」の大ニュースを初めて伝えて世界を驚嘆させた。
袁さんは兵馬俑に刻まれた銘文を調べ続け、官職や作者らの名を割り出すなど一つひとつの謎を解き明かした。一線を退いて久しい袁さんが、しみじみと語った。「考古学を志す人間には土の中から見つかる物がすべて。やがて文化的な興味に突き動かされ、解明したくなるものです」。この信念は、現在の研究者に脈々と受け継がれる。